第61話【電車道】
2歳あたりまでの福岡市・その後の北九州市黒崎・八幡在住時代のそれぞれの街並で、常に身近な存在だったのがクリーム色と焦茶色のツートンカラーが(当時は)まばゆい西鉄の路面電車(福岡市内線・北九州本線)たちでした。
気が付けば、かつて路面電車が走る街中の道のことを呼称していた「電車道」という言葉も今や死語となり、近年LRTとして路面電車を見直す傾向にはあるものの、日常使いの言葉として「電車道」を耳にしなくなってしまった今日に寂しさを覚えます。
親の話しでは福岡では渡辺通1丁目の「九電ビル」の裏手に住んでいたらしいのですが、身近に電車の行き交う街中に居ながら自身の記憶には全く残って居らず、コラム第2話に記したとおり、記憶に残る鉄ちゃん人生始まりの原体験は、母親に「機嫌が良くなるので」と度々連れて行かれては飽きる事無く眺めていたという、黒崎駅構内に憩う蒸気機関車群の雄姿からになります。
黒崎在住の記憶は他に、何故か住んでいた家のありふれた玄関先の記憶くらいしか殆ど無いのですが、親の話しでは或る日私が行方不明になったことがあったらしく、大騒ぎになって近所を探しまわってもみつからず、まさか思って捜索した先の黒崎駅前の(もう閉店したようですが)地元の百貨店「井筒屋」の入り口で、地面に座り込んで電車を眺めていた私を発見したそうです。
家からの距離も然り、2歳そこそこの幼児がひとりでどうやって駅前に辿り着いたのか?今もって謎のままですが、このあたりのエピソードが「生まれながらの鉄ちゃん」と自称せざるを得ない所以のように思えて参ります。
話しを現代に戻して、最寄り駅の阪急御影駅にも駅の東端の線路端に、路盤とほぼ同レベルにあって電車を眺めるのにも丁度良い広めの(私も普段使いする)歩道があって、そこでは幼子と電車を眺める微笑ましい若いお母さんやお父さんの姿を度々に目撃します。大抵はベビーカーにちょこんと収まる今時のお子たちのうちの何人かは、きっと将来鉄道好きに成長するに違いないと思ってしまいます。
黒崎から八幡へ移り住んでからの記憶は可成り明瞭で、住んでいた町は末広町・高台の立地・木造平屋の小さな庭があった借家で、家の窓からは八幡製鉄所が見えました。
一般的に南国をイメージし勝ちな九州ですが、福岡や北九州は海山の位置関係からどちらかといえば(今は使いませんが)裏日本式気候に近似し、八幡でも雪が積もることがありましたが、その雪が黒いつぶつぶの煤煙混じりだったことも良く覚えていますし、ご近所さんが当時は珍しかったマイカー(マツダキャロル)を買ったと聞けばみんなで見に行ったり、八幡在住の後半になると我が家にも中古のテレビがやって来るといったそんな時代でした。
ある晩、父親の友人家族が我が家を訪れ宴会が始まりましたが、ご家族の中の歳の近そうな男の子と何故か意気投合すると二人で宴会を抜け出し、当時家からダラダラと坂を下った先にあった西鉄北九州線の電車道の電停に(電車停留所・これも死語になりましたね、電停は多分「大蔵」だったと思います)行って、丁度当時「3両連結が出る!」と話題になっていたその「新車」がやって来たら「中央町」まで乗ろう!とひとしきり盛り上がった思い出があります。
1960(昭和35)年当時の出来事ですから、1000形ABの2連接車体にC付随車が組込まれる3連接化実施の前で、いくら待ってもやって来るはずも無く、そもそも運賃の概念も希薄だった悪ガキの冒険は、懐中電灯片手に夜道を探しに来た両家族にしこたま叱られ終了します。
路面電車でありながら、インターバーン的要素も薫る西鉄北九州線を颯爽と駆け抜ける1000形は、3連接で無くても圧倒的にかっこ良くて、相前後して神戸にて、乗り込むなりド肝を抜かれた転換クロスシート車の神戸市交750形とともに、自分の中では間違い無く路面電車のヒーローでした。
まだまだ書き足らないエピソードは沢山ありますが、四方八方手の要る個人事業ゆえ、当初は月一ペースを想定していたコラムの更新もずっと侭ならず推移しておりますが、ふいに耳にした「コラムのワードが刺さった」と仰る或るお客様のご感想をバネに、いつまで続けられるか先行き不安な事業でもありますので、今年は出来る限りに塗装であったり描画作業であったりと、作業の切り替わる僅かな時間を意識的にコラムに充ててみたところ、年間で11話と目標に近づいて来ましたのでやれやれといったところです。
相変わらずに新製品「スロ54」の製品開発が続いて年末も休めませんが、暖かくなる頃には発売に向けての何がしかのご案内が出来るかと思います。
只今調達不能に陥っておりますシートパーツも、代替えなどの見通しが付かず課題山積で先が思いやられますが、引き続いて賜りました本年のご愛顧に厚く御礼申し上げますとともに、皆々様のご多幸をお祈り申し上げます。
(2022.12.27 wrote)
|