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第61話【電車道】
第62話【2023年の始まりに思うこと】
第63話【北九州・交流電化の黎明期】
第64話【縁の地の不思議…或る「かもめ」のお話し】

   
 

第61話【電車道】

2歳あたりまでの福岡市・その後の北九州市黒崎・八幡在住時代のそれぞれの街並で、常に身近な存在だったのがクリーム色と焦茶色のツートンカラーが(当時は)まばゆい西鉄の路面電車(福岡市内線・北九州本線)たちでした。

気が付けば、かつて路面電車が走る街中の道のことを呼称していた「電車道」という言葉も今や死語となり、近年LRTとして路面電車を見直す傾向にはあるものの、日常使いの言葉として「電車道」を耳にしなくなってしまった今日に寂しさを覚えます。

親の話しでは福岡では渡辺通1丁目の「九電ビル」の裏手に住んでいたらしいのですが、身近に電車の行き交う街中に居ながら自身の記憶には全く残って居らず、コラム第2話に記したとおり、記憶に残る鉄ちゃん人生始まりの原体験は、母親に「機嫌が良くなるので」と度々連れて行かれては飽きる事無く眺めていたという、黒崎駅構内に憩う蒸気機関車群の雄姿からになります。

黒崎在住の記憶は他に、何故か住んでいた家のありふれた玄関先の記憶くらいしか殆ど無いのですが、親の話しでは或る日私が行方不明になったことがあったらしく、大騒ぎになって近所を探しまわってもみつからず、まさか思って捜索した先の黒崎駅前の(もう閉店したようですが)地元の百貨店「井筒屋」の入り口で、地面に座り込んで電車を眺めていた私を発見したそうです。

家からの距離も然り、2歳そこそこの幼児がひとりでどうやって駅前に辿り着いたのか?今もって謎のままですが、このあたりのエピソードが「生まれながらの鉄ちゃん」と自称せざるを得ない所以のように思えて参ります。

話しを現代に戻して、最寄り駅の阪急御影駅にも駅の東端の線路端に、路盤とほぼ同レベルにあって電車を眺めるのにも丁度良い広めの(私も普段使いする)歩道があって、そこでは幼子と電車を眺める微笑ましい若いお母さんやお父さんの姿を度々に目撃します。大抵はベビーカーにちょこんと収まる今時のお子たちのうちの何人かは、きっと将来鉄道好きに成長するに違いないと思ってしまいます。

黒崎から八幡へ移り住んでからの記憶は可成り明瞭で、住んでいた町は末広町・高台の立地・木造平屋の小さな庭があった借家で、家の窓からは八幡製鉄所が見えました。

一般的に南国をイメージし勝ちな九州ですが、福岡や北九州は海山の位置関係からどちらかといえば(今は使いませんが)裏日本式気候に近似し、八幡でも雪が積もることがありましたが、その雪が黒いつぶつぶの煤煙混じりだったことも良く覚えていますし、ご近所さんが当時は珍しかったマイカー(マツダキャロル)を買ったと聞けばみんなで見に行ったり、八幡在住の後半になると我が家にも中古のテレビがやって来るといったそんな時代でした。

ある晩、父親の友人家族が我が家を訪れ宴会が始まりましたが、ご家族の中の歳の近そうな男の子と何故か意気投合すると二人で宴会を抜け出し、当時家からダラダラと坂を下った先にあった西鉄北九州線の電車道の電停に(電車停留所・これも死語になりましたね、電停は多分「大蔵」だったと思います)行って、丁度当時「3両連結が出る!」と話題になっていたその「新車」がやって来たら「中央町」まで乗ろう!とひとしきり盛り上がった思い出があります。

1960(昭和35)年当時の出来事ですから、1000形ABの2連接車体にC付随車が組込まれる3連接化実施の前で、いくら待ってもやって来るはずも無く、そもそも運賃の概念も希薄だった悪ガキの冒険は、懐中電灯片手に夜道を探しに来た両家族にしこたま叱られ終了します。

路面電車でありながら、インターバーン的要素も薫る西鉄北九州線を颯爽と駆け抜ける1000形は、3連接で無くても圧倒的にかっこ良くて、相前後して神戸にて、乗り込むなりド肝を抜かれた転換クロスシート車の神戸市交750形とともに、自分の中では間違い無く路面電車のヒーローでした。

まだまだ書き足らないエピソードは沢山ありますが、四方八方手の要る個人事業ゆえ、当初は月一ペースを想定していたコラムの更新もずっと侭ならず推移しておりますが、ふいに耳にした「コラムのワードが刺さった」と仰る或るお客様のご感想をバネに、いつまで続けられるか先行き不安な事業でもありますので、今年は出来る限りに塗装であったり描画作業であったりと、作業の切り替わる僅かな時間を意識的にコラムに充ててみたところ、年間で11話と目標に近づいて来ましたのでやれやれといったところです。

相変わらずに新製品「スロ54」の製品開発が続いて年末も休めませんが、暖かくなる頃には発売に向けての何がしかのご案内が出来るかと思います。
只今調達不能に陥っておりますシートパーツも、代替えなどの見通しが付かず課題山積で先が思いやられますが、引き続いて賜りました本年のご愛顧に厚く御礼申し上げますとともに、皆々様のご多幸をお祈り申し上げます。
(2022.12.27 wrote)

 
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第62話【2023年の始まりに思うこと】

新年明けましておめでとうございます。

今年は元日が日曜日なので、なんとは無しに損した気分になるのかなと、自営の身には縁の無い話から始まりましたが、年が改まり(昨年もそうでしたが)責めて元日は仕事を離れ何もしない日にしようと定めておりましたので、朝から呑んだくれていると、ふとした折りにお客様から度々に頂戴する「(精神衛生上も)たまには(自分の)模型弄りして下さいね」のお声掛けが頭をよぎると一旦はその気になるものの、ご周知のとおりに案外とデリケートな鉄道模型で遊ぶには、設営や(発生が予想される)不具合への対処など、1日では収まらないことは明白で、つらつら考えるうちに諦めの境地に支配され致し方なく持て余すと、今年はあろうことか元日から早々と、遅れに遅れる新製品・スロ54製品関連の軽めの工作に手を出してしまい、あえなく日常に引きずり込まれてしまいました。

みなさんご存じのとおり昨年末になって突然に、天賞堂さんとKATOさんから16番ゲージの発売予定情報が相次いで発表され、私の周囲でもひとしきりザワつきました。

天賞堂さんからは、スハニ35形・スハ44形・マシ49形・スロ54形・スハフ43形の組成からなる戦後客車時代の「かもめ」編成の製品化がアナウンスされ、自身も実はこれまで天賞堂さんへコンタクトの機会ある度に「何故「はつかり」をラインナップしたのに「かもめ」をやらないのか」と製品化を懇願し、毎回決まって食堂車に必要な新規の金型投資を理由に難しいと回答され続けておりましたので、正直殆ど諦めながらも、もしかしてと待ち続けた待望の製品化のニュースには尚更に心躍りました。

実車の戦後「かもめ」は1953(昭和28)年3月に博多-京都間の特別急行列車として運行を開始しますが、早々にロザ車1両を減車、当初に組成された非冷房の食堂車スシ47形を冷房付きのマシ29形へ置換え、更にマシ49形へ置換えてようやく組成が落ち着く1954(昭和29)年7月15日から1957(昭和32)年6月4日まで続いた、手間を惜しまぬ手厚い方転時代の、当時の特急らしい姿がモデルのプロトタイプとなります。

模型愛好家のみなさんの間で「かもめ」を語る上で、サン・ロク・トオ改正でキハ82系特急型気動車へ置き換わるまでの戦後の客車時代に於ける組成の変遷を、便宜的に「前期」「中期」「後期」に分けるのが一般的なようで、今回予定のモデルは所謂「前期編成」に相当し、引き続いてのハザ車を新鋭のナハ11形・ナハフ11形に、スハニ35形をオハニ36形に置換えて方転扱いを廃止してから食堂車に特急「平和」から捻出したオシ17形が充当される迄の間の、1957(昭和32)年6月5日から1959(昭和34)年7月24日にかけての編成が「中期編成」と、1歳児の自身が博多-神戸間でナハ11形に(本人に記憶はございませんが終始ご機嫌で)初乗車したのもこの時代の「かもめ」になります。

「中期編成」の末期にあたる1959(昭和34)年の6月から、客車や機関車の標準車体色「ぶどう色1号」の「ぶどう色2号」への塗替えが始まり、1960(昭和35)年7月1日には3等級制が廃止され2等級制がスタートしますが、「中期編成」の食堂車がオシ17形に置き換わってから後「かもめ」は、東北路の「はつかり」のDC(キハ81系特急型気動車)化で余剰となったナロ10形を迎え入れ、1960(昭和35)年11月17日よりロザ車をナロ10形に置き換え、そこから自らのDC化で最終運行となる1961(昭和36)年9月30日までのこの最終組成を「後期編成」としているようです。

自身の客車「かもめ」モデルは「後期編成」となりますが、ヘタレモデラーの私がもう20年以上も前から、フジモデルさんのナロ10形やオハニ36形をコツコツと揃えつつ、たまたま出張帰りに立寄った(まだ東京八重洲口にお店があった当時の)ホビーショップモアさんの店内で、輝く現物につい目が眩み、後先考えず買い求めたオシ17形を加えたところで、比較的短編成の9連とはいえ、重たいブラスモデルばかりの組成では機関車の牽引力が心許なく、さてナハ・ナハフをどうしようと長年放置していると、05年にTOMIXさんからナハ・ナハフの該当仕様が製品化されたので、迷わず入線させ増備を終えました。

各モデルは床下に端梁やトイレ流し管・車軸発電機などを追加した程度と、相変わらずのあっさり仕上げですが、オハニ36形には自作の点灯式バックサインを追加して、内装はひととおり設えましたので、現在の御影モデルのナロ10製品やナハ・ナハフ用のシールパーツは、この時の工作をベースに開発しており、弊社HPトップ画像のナロ10形もこの時の「かもめ」用になります。

因に1961(昭和36)年6月に発布された改定で、1等級帯色が青1号から淡緑6号へ変更されますが、改定の3ヶ月後には運用を終えることが決まっていた「かもめ」のナロ10形ですので、等級帯は青1号色のままでも違和感は無かろうと、モデルの等級帯も青1号色を存置しております。

弊社HPに掲載しております製品参考画像の殆どは、プライベイトで制作した自身のモデルで、めざとい方なら既にお気づきかもですが、営業車の列車名・列車種別サボについての国鉄の規定では、前位(①②エンド)に「列車名」を・後位(③④エンド)に「列車種別」を掲示するよう定められていましたので、各車の組成の向きによっては出入口付近で「列車名」どうし(或は「列車種別」どうし)が隣り合ってしまうという、インフォメーション機能として不適切な事例を実際に見掛ましたし、そもそも必ずしも規定通りに挿されて無かった光景も記憶しておりますので、自身の模型世界では、先ずは史実通りの組成向きを守った上で、下り方の先頭から「列車種別」「列車名」の順で、必ず交互に隣り合うように敢えて規定を無視して貼付けています。HP掲載の製品紹介画像のナロ10形やオロ11形のサボ配置が規定と異なるのはそのためです。

ohani36←フジモデルさんの塗りキットで仕上げたオハニ36形です。

テールサインは適当な径のパイプを金ノコで輪切りして仕上げました。「かもめ」の図柄はイラストレータで自作し、光源にはシーダさんのヘッドライト用チップLEDを採用し、逆位相で結線しています。(内装はデコラパネルによる更新仕様で作製しましたが、後の検証で木目地のオリジナルのままであったことが判明しておりますので、追々改装の予定です)

時折頂戴致しますお客様の力作を拝見する度に、我が身のヘタレぶりに凹むのが日常のお見苦しい薄味モデルにて恐縮です。

この度製品化がアナウンスされた天賞堂「かもめ」のこの時代の牽引機は、九州島内:C57形、関門トンネル区間:EF10形、セノハチ後補機:D52形、山陽東海道:C59形或はC62形と夢のような布陣なだけに、想像するだけでお楽しみの夢が膨らみます。

もう一方のKATOさんの新製品ニュースは、あの「夢空間」を16番ゲージでモデル化するという全く唐突なアナウンスでした。

私自身は実車の「夢空間」に全く興味がございませんので蚊帳の外ではあるのですが、まだご存知で無かったお客様にたまたまお伝えをしたところ、お仲間で大騒ぎとなった模様で、「夢空間」といえば16番ではこれまでブラスモデルで模型化はされたものの、ブラスならではの華のあるモデルながら、同時においそれとは手を出せない価格でしたので、欲しい方にはこの上ない朗報かと拝察を致します。

KATOさんといえば、今や貴重な国内生産を堅持するメーカーであるうえに、特にその金型製造や成型技術に於いては工業界レベルでも間違いなく一級品と申せますし、でありながら常にコストパフォーマンスに秀でた売価を維持してくれていて、しかも後々に実施する再生産の場面でも安易に値上げに走らないという、誠にあっぱれとしか言いようの無い希有なメーカーさんですが、唯一の難点は16番にそっけないという一点に尽きると、ユーザーの誰もが思うところではなかろうかと思います。

圧倒的にNゲージが主戦場の業界ですので、16番での製品化には企画・製造は兎も角も、流通販売面で不利に作用するのは明らかなので、KATOさんが想像以上に尻込みされるのも解らないでは無いのですが、以前のこと、発売を始めて久しいキハ80系列製品に、突然にキハ81形モデルが新たに加わった際に巻き起こった見事な市場の活性ぶりに、ついそれ見た事かと思ってしまう訳で、キハ82系製品同様に私もお気に入りのKATOさんの20系製品にもバリエーション展開の余地が有り余っているというのに、一向に動きの無い現状には常々歯痒い思いが拭えません。

16番製品には慎重なそんなKATOさんなので、この度の突然の「夢空間」製品化のアナウンスには大変驚かされましたが、良く出来たモデルと業界でも評判のようで、それは現在KATOさんのHPに掲示されている試作品画像からも、しっかり点灯式なのは言う迄も無いテーブルライトやラウンジ天井シャンデリアの精緻な作り込みなど、良さが十分に伝わります。

「夢空間」の天井の造作については、盛り上がるお客様から「和田さんとこのオシ16に刺激されたのでは?」とお言葉を頂戴したりと、外野の気侭な妄想談義にも花が咲きましたが、実際にどのような構造で模型に天井を設えたのかは私も知りたいところで、16番とは言え、限られた空間内での造形には、樹脂成型の方が自由度に勝りコスト的にも有利と言えますので、今後のインジェクションモデルの目指すべき方向性のひとつにも思えて参ります。

実車の「夢空間」に興味の無い自身にとって最初はピンと来ていませんでしたが、よくよく考えると、機関車や客車といったKATOさんの既存製品と自在に組み合わせられるので、遊びの幅も広がるという好適モデルであることは確かで、いつもの良心的な価格でもありますし、小売店さんでも既に予約は絶好調と、新年早々の16番製品での盛り上がりを喜ばしく思う次第です。

さて次回は、北九州在住時代の続きのお話しと、もうひとつの或る「かもめ」のお話しです。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
(2023.01.03 wrote)

 
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第63話【北九州・交流電化の黎明期】

1963(昭和38)年春までの数年を過した北九州在住時代、沿線の鹿児島本線では真新しい気動車が台頭しつつある中でも旅客・貨物輸送の主役はやはりC型大型蒸機・古豪も健在のD型蒸機と、蒸機牽引の普通列車もまだまだ当たり前だった時代でした。

妻面幌枠の足元左右に、いかついアンチクライマーが備わった戦前生まれのWルーフ車も数多く、一方では艶やかなボディーがまばゆい麗しの20系や最新のナハ10系列などのモダンな軽量客車の活躍も目覚ましく、複々線化も1961(昭和36)年10月には黒崎まで南下しますし、八幡から枝光にかけては、有名な「山科の大カーブ」にも劣らない迫力満点の大カーブが続いて、幾条にも連なる鉄路を新旧綯い交ぜにバラエティー豊かな列車たちが往来する様は、考えてみれば幼少の鉄ちゃんにとって極めて刺激的な環境にあったことが言えるかと思います。

これも親から漏れ聞いた話しですが、当時は主流と言えた750ミリ高の列車線ホームに、腰高のキハ10系列気動車が停車すると丸見えとなる床下機器類を、必ずしゃがみこんで飽きずに覗き込んでいたそうで、船舶由来のこのDMH-17形(多分C形あたりになるかと思いますが)ディーゼルエンジンのカランカランカランカランという独特のアイドリング音を聴いて育ったことが、その後のDMH-17形エンジン好きの礎となったようにも思えます。

ご周知の通りに鹿児島本線は、山陽本線全線の電化はまだ途上の1961(昭和36)年6月1日に、仙山線の試験実積を元に実用化された交流電源によって、先行した北陸本線や東北本線に引き続いて、同日に電化開業した常磐線とともに門司港-久留米間が電化開業します。

時代は流れて「つくばエクスプレス」のように沿線の気象庁施設での地磁気観測に支障の無いよう(常磐線の交流電化起点にも同様の理由が内在していましたが)わざわざ交流電化区間を設ける例はあっても、新幹線電車は例外として、今日では運用上の都合から交流電化区間を直流へ見直したりするなど、交流電化は電化の主役には成り得ませんでしたが、当時の国鉄は架線電圧を在来の直流1500Vから交流20000Vへ引き上げることで、電動車の製造コストは嵩むものの、直流では5キロ〜10キロ毎に必要な変電設備が50キロ毎で済み、変電設備そのものが直流より安価なメリットが、比較的に輸送力に余裕のあった地方幹線の電化に最適と、この時代の地方の幹線電化の延伸は交流で進められたことが、後々に電気機関車であれ電車であれ様々に車種の派生を齎すことになって、それが鉄ちゃんにとっては知的好奇心をくすぐるネタにもなって、振り返るとなかなかにいい時代だったかなと思います。

交流電化の実施に際して、車輌側は異なる電源方式を直通運転出来るよう交直流型の開発に力点が置かれますが、興味深いのはこの門司港-久留米間での交流電化が、電化そのものの幕開けとなる九州島内向けに交流専用電車の開発も並行していた点で、整流器の開発にまだ課題を抱えていた背景を思わせる交流電源で交流電動機を回せないか?といった素直なチャレンジにて課題のトルク不足に苛まれると、クモヤ791形に見られるように気動車並みにトルコンや遊星ギヤを介入させてみるといった(インバータ制御など夢の時代に於ける)着想には驚かされます。

この時点では交流電動機に見切りをつけ、交流を整流(脈流)して直流電動機を駆動するシステムに落ち着きますが、シリコン整流器の実用化も然りで(元はと言えば)研究用にフランス国鉄に求めた電気機関車供与の拒絶を端緒に、自力開発に邁進し結果的に国産技術で実用化に至った交流電化に携わった先人の努力はなかなかに壮快です。

ご周知のとおりこの交流電化で、東日本と西日本で異なる商用電源周波数事情に対応して常磐線には50Hz用の401系が、鹿児島本線には60Hz用の421系が新製投入され国内初となる交直流電車の運行が始まりますが、見慣れない新色のツートンカラー(当初401系は赤13号・クリーム1号、421系は赤13号・クリーム2号…1963(昭和38)年以降交直流急行型標準色と同色の赤13号・クリーム4号色に順次更新)を纏った裾絞りの幅広車体となって、側面の3箇所に両開きの幅広扉が展開し、車内レイアウトは戦前のモハ51系列から70系電車へ引き継がれてこの後も続くことになるBOXシートをメインに戸袋部にロングシートが配置されたセミクロス仕様、その所謂近郊型電車との出会いは、パンタ廻りの賑やかな碍子の理由など知る由もない幼児期の鉄ちゃんにとっても実に鮮烈でした。

401系・421系は、直流近郊型111系の交直流版と後発に認識され勝ちですが、近郊型の決定版として長らく続いたこのスタイルの始まりは401系・421系からで、湘南色・スカ色でお馴染みの111系の登場はその1年後となるのですが、電車線の環境整備が整わない地方線区へ投入されることが決まっていながら客扉にデッキステップを設けなかった仕様は不可解で、111系との並行開発が見え隠れ致します。
登場以降も長い付き合いとなる421系との思い出は、ホーム面から更に高い位置となる電車の床面に向かって、まるで梯子をよじ登るように気合いを入れて乗り込む苦行に始まります。

話しが脱線してしまいますが、ユニバーサルデザインの概念すら無かった時代を経験した世代として、今日の京都鉄博に見て取れる、列車ホームに見立てた通路(順路)を展示車両に密着させて来場者の安全を確保するやり方には、意図は理解出来ても違和感を感じざるを得ず、後世に産業遺産を伝える博物館の姿勢がこれで良いのかと、責めてホームと車輌との間には実物通りのクリアランスをしっかり設けて、隙間に生ずる危険性には転落防止用の透明アクリルパネルを嵌め込むなどして対処して欲しくなります。

以前もお話した通り、今日では一般的に「電車」が鉄道を指す常用語となりましたが、当時の北九州では、国鉄線のことを総じて「汽車」、路面電車を含めた西鉄線のことを「電車」と呼んでいて、その背なのかはわかりませんが、試運転を始めた421系電車のクハ前面に「電車」と書かれたヘッドマークが掲げられた史実には誇らしさが見て取れます。

幼少期を過した北九州在住時代、高度経済成長幕開けの空気感も漂いつつあった頃の今も印象に残るお楽しみといえば、折尾駅に出掛けて味わった東筑軒の駅弁「かしわめし」であったり、六甲ケーブルと並んで異空間にワクワクした皿倉山へのケーブルカー登山であったり、421系快速電車で福岡市内へ足を延ばし西鉄貝塚線に乗り換えて辿り着く夢の遊園地「香椎花園」だったりしましたが、或る日のこと、徒歩で渡れる関門国道トンネルで本州側へお出掛けした先で、どう見ても実物大に見えた金色に輝く巨大なC62形(に見えた)前面のカットモデルが建物の壁に埋まっていたのを見た記憶が確かにあるのですが、一体どこの何だったのか未だに謎です。

幼稚園の卒園とともに熊本へ移住することになりますが、その半年程前に洞海湾を跨いで戸畑と若松を繋ぐ「若戸大橋」が竣工します。今はありふれた橋ですが当時は東洋一の吊り橋と謳われ業界では長大橋の始祖と位置づけられるそうですが、どんな経緯だったのか全く不明ながら、竣工時に実施された渡り初めに参加して橋の上を歩いた経験があり、振り返れば幼稚園で仲の良かった友達の名前は覚えていても顔は思い出せないほどに北九州との縁は一旦途切れてしまいますが、北九州在住時代の記憶に残る最後の思い出として、その後も鹿児島本線で沿線を通過する度に眺めていた赤い吊り橋には今も特別な郷愁を感じます。

余談が過ぎまして、予告した「もうひとつの或る「かもめ」のお話し」については次回にお話し致します。
(2023.01.27 wrote)

 
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第64話【縁の地の不思議…或る「かもめ」のお話し】

小売店様などでお話しを伺っておりますと、近年の鉄道模型界にはどうも気になる変化が見られるようで、これまで受け継がれて来た模型の性質上守るべき不文律・常識などを軽視してしまうようなメーカーの製品づくりであったり、一方ユーザー側では、巷に溢れる工業製品並みの品質を正義とする従来はあまり見られなかったように思える価値観も顕われているようです。

これまでも時折出現した経験不足なメーカーの粗相は兎も角、ユーザー側の傾向が業界にとって果たして歓迎すべきことなのか、私には判断がつきませんが、元より鉄道模型趣味に付いてまわるモデルやレイアウトの作製、軌道・電装系などのメンテナンスのそれぞれに不可欠といえる創意工夫であったり加工技術などを、失敗を繰り返しながらも磨いていくことで得られる奥深さだったり楽しさは、鉄道模型趣味を支える大事な要素に思えるのですが、時折目にするようになったこうした異変には少なからず寂しさを覚えます。

このお商売のお陰様でお客様との同好の交流もそれなりに深まりますので、工作関連のご相談にお応えしたり(但しヘタレモデラーの自身の助言など屁の突っ張りにもなりませんが…)模型製品全般の情報交換など致しますが、そんな中でたまたま縁の地「八幡」にお住まいのお客様から、先般天賞堂さんが製品化をアナウンスされた「かもめ」編成と同時期の「かもめ」のモデル化に以前から取り組まれていたことを伺いました。

その方はブラスからペーパーまで幅広く手掛けられる凄腕のお客様で「無いものは作る・工夫して作る」という姿勢には(自身とは圧倒的な技量の差こそあれ)日頃から勝手にシンパシーを抱くモデラーさんなのですが、内容をお伺いするうちに「これぞ鉄道模型趣味を楽しむということの好事例」と思えて参りましたので、意図をお伝えをして本コラムでのご披露をお願い致しましたところ、ご快諾を頂きましたので今回はこの「もうひとつの或る「かもめ」のお話し」へと参ります。

■北九州市・K様加工作品:
ハセガワMODEMOキットベースのスハフ43形とお椀型「かもめ」ヘッドマーク
※C57形11号機は天賞堂製品、以下全て提供画像です(適宜当方加工も含まれます)


取材を元にお話しを進めますと、折しも還暦を迎えられたところだそうで、模型は中学から始められたとのこと。
鉄道に興味を持たれた幼少期に「かもめ専用機」として装飾された門デフ機に衝撃を受け、またゴー・サン・トオで終了する最終ルートのDC特急時代の、枝光-八幡の大カーブを2003D筑豊線経由佐世保行き「かもめ」①号車から⑥号車の6連に引き続いて、3D長崎行き「かもめ」⑦号車から⑬号車の7連がやって来るという、ダイナミックな「かもめ」の雄姿にも感動と、「かもめ」の再現には強い思い入れをお持ちで、(先頃久々の再生産がアナウンスされた)天賞堂C5711号機モデルについても前回の発売アナウンスと同時に予約して購入されたそうです。

私の場合DC「かもめ」時代は、これより少し前の長崎・西鹿児島ルートだった頃が一番夢中でしたが、考えることは同じで実は私も前回の天賞堂C5711号機「かもめ時代」製品には、後先考えずに飛びつきました。

手元の記録では20年前に購入しており当時の定価は198,000円、消費税5%の時代で1割引の187,110円で購入していました。
飛びついたとは言うものの、ブラスモデルを購入する際は、メーカーに勤務していた当時、デザイン案の確認や提示に必要だったデザインモデルの制作を、専門のモデル屋さんへ依頼する場合に用いられていた、時間当りの工賃×日数×人工+材料代で算出されるモデル代を頭の中に思い描いて、この製品なら6〜70万はかかりそうやなと、半ば恣意的に導き出した対価をハードル超えの納得材料としていましたが、今や40万円台も当たり前のブラス製蒸気機関車の製品価格にはもう絶望的に付いて行けません。

車体の軽いプラ製品の台頭で長編成走行も容易くなり、昔は諦めざるを得なかった20系客車の実車通りの15連走行も(音は兎も角として)可能な時代となりましたので、自身も基本実車通りの組成でモデル化しますが、天賞堂C5711号機「かもめ時代」製品は見るからに非力ですので、9連とはいえ「かもめ」を組むには当時フジモデル製品くらいしか思い当たらず「かもめ」のモデル化は将来のプラ製品に託すことにしました。

近年「つばめ」「はと」「はつかり」と天賞堂さんがスハ44系列モデルをプラ車体で製品化されたので、以前もお話しした通り、この間天賞堂さんへ連絡の機会がある度に「かもめ」の製品化を猛プッシュする鬱陶しいユーザーだったのですが、ここが私のようなヘタレモデラーと凄腕正統派モデラーKさんとの大きな違いで、たまたま地元の模型店で発見されたMODEMOのスハフ43形製品を入手すると、MODEMOからは他に「かもめ」の組成に適したスハニ35形・スハ44形・スロ53形(ご周知の通り、スロ54形と同外観)製品が発売されていましたので、これらをオークションを利用してコツコツと集められたそうです。

MODEMOはプラモデルメーカー「ハセガワ」が手掛ける鉄道模型ブランドですので、製品も所謂プラモデル的な頼りなさが予見されはしたものの、編成の軽量化という大事な条件はクリアします。なんでも中村精密製を引き継いだ製品なのだそうですが、側窓や幕板などの縦寸法が実車の縮尺寸と異なっていて大きく不満だったそうですが、そこは雰囲気重視と割り切って、製作に取りかかる前に天賞堂プラ製「つばめ」編成が発売されたこともあって、最小限の投資で天賞堂製品と遜色無いレベルへ引き上げようと細かに工夫されたそうで、その努力は出来上がった作品からも伝わります。

マシ49形については、やはりオークションで落札したニワ製のスシ37形を充てる予定が、立派な造り故に重たいためフジモデル製へ変更されたそうで、更に床板をアルミ製に換装し軽量化に留意されています。

■仕上げを待つフジモデル製マシ49形


マシ49形は、戦前に遡る1931(昭和6)年製スシ37740形をベースに1933(昭和8)年に丸屋根に設計変更されたスシ37800形がルーツとなりますが、黄金色のブラス生地の状態でもその重厚で端正な出立ちにうっとり致します。

昭和8年といえば、他界した母親の誕生年で、私が母親とともに初めて乗車した夜行急行「雲仙」の食堂車も「かもめ」運用から外れたお下がりのマシ49形でしたので、利用は叶いませんでしたが、因縁めいたものを感じます。

余談ついでに、JR九州の金ピカの外装がなんとも形容し難い大人気の観光列車「或る列車」のモチーフとなったのが、皆様ご存知模型界の重鎮・原信太郎御大の模型そのものだった訳ですが、明治期の九州鉄道がブリルに発注した客車たちが引き渡されたのが九州鉄道の国有化後だったために行き場を失い、長らく大井工場に眠った悲運を、鉄ちゃんの間で長きに渡って「或る列車」と語り継がれたこの豪華客車たちの模型化は興味深く、原さんは長らく芦屋にお住まいでしたので、時折近隣の百貨店イベントなどへ出品され私も「或る列車」を拝見しましたが、外観は生地色のままでも内装まで細かく作り込まれたモデルには凄みを感じました。

たまたまある日の会場で、原さんご本人と少しだけお話する機会があって「或る列車」のことを伺うと、資料に乏しかったので展望デッキ手摺の唐草模様などは完全に自身のオリジナルで「遊び心」を優先させたとお話し下さいました。
模型は自由も然りと改めて思いますが、(あくまでプロダクト視点とお断りした上で、現場の苦労などこ吹く風と相変わらずの大胆さで)気動車正面に象徴的に唐草模様をあしらった金ピカの水戸岡デザイン「或る列車」の変身ぶりに、天国の模型作家は何を思うだろうと感想を伺ってみたくなります。

■お椀型「かもめ」ヘッドマーク


冒頭で紹介した九州特有の「お椀型」ヘッドマークは、所属クラブの重鎮から漏れ聞いた手法に倣い、ホームセンターで見つけた鉄製のローゼットワッシャを受け方にして、高校生の頃に購入済みだった「ひかり模型」製のヘッドマークを乗せ、ハンマーで丸みが付くよう成型したそうです。

古い製品だけに塗装・素材を傷めぬよう加減しながら慎重に叩き出されたそうですが、少しの膨らみでも効果は十分で、更に装着用に背面上下に穴開きの取付け座を設ける丁寧さが光ります。私も是非挑戦しようと思いますが、日頃ヘッドマークの掲示を両面テープの仮留めで済ませてしまう自身の荒技が恥ずかしくなります。

■8号車減車の8連で落成した「かもめ」

最終的にMODEMOスロ53製品の入手が2両に留まったことから、8号車を減車扱いとした8連で一先ず運行を開始されています。

■スハニ35形



■スハ44形


■スハフ43形




■スロ54形



MODEMO製品はやはり成型の荒れが酷く車体の下地処理には相当な時間を要されたそうですが、全く見劣りしない仕上がりぶりに、却って苦行の日々が透けて見えて参ります。

妻板やデッキ扉などは適宜対象の成型部分を削り落として「工房ひろ」のエッチングパーツでディテールアップ、床下機器は軽さに留意しカツミ製プラ一体モノに変更した上で適度なパイピングによる精緻さの演出に配慮されています。(但し重心確保のため釣り具の錘を加工したウエイトを搭載・カツミ製スハ44用の一体床下パーツはスロ54形にも流用)

また窓ガラスパーツも(恐らくヒケと思われますが)平面が出ていなかったため、割り切ってポリカ薄板を貼り付け、僅かに段差が生じてもスッキリとした見た目を重視されています。

ひかり模型のヘッドマーク製品も然り、何かに使えないかと遥か昔に確保した素材の活用はなかなかに愉快なもので、私も会社勤務時代には設計部署の工作台の上に散らかっていた屑ゴミの中から、ウエイトになりそうな亜鉛板の端材を見つけると、顔馴染みを捕まえて「これ要る?」と了解を得て(厳密に言えば業務上横領になるかもですが)たまに持ち帰ることがありましたが、ヘタレモデラー故に活用率は一向に上がらず宝の持ち腐れが続きます。

台車は製品付属のものだそうですが、モア製の真鍮軸受けを全軸受けに埋込んで集電に対応、連結器はIMONカプラ、ベンチレータはKATO製に変更、車体の塗装は「モリタ鉄道カラーぶどう色1号」をチョイスされています。
好みの範疇にはなりますが、個人的には天賞堂プラ客車製品の「ぶどう1号」色が満足の行くレベルとまでは思えないだけに、画像ですので厳密には判断出来ませんが良さげな仕上がりぶりに見て取れて、自由度に勝る自作の良さを感じます。

標記類(インレタ)は「くろま屋」製、旧字の「門タタ」は特注で発注、その後製品ラインナップに加わっています。(以前私も「くろま屋」小川さんに特注した電気機関車検査票の「新製」バージョンが、後に製品ラインナップ化されましたが、インレタのプロらしい製品化への積極姿勢が大変に有り難いメーカーさんです)
実車と異なるウインドシルの位置で天地が浅く窮屈となったスペースに、形式・自重・換算・検査の各標記インレタを慎重に配置された気配りが画像からも伝わります。

スロ54形の青1号色の等級帯も「くろま屋」製インレタです。一般的に細長いドキュメントは扱い辛くインレタに不向きと言われますが、私もTOMIX製の青15号色オロネ10形に(2等級制時代としたく)「くろま屋」さんの淡緑6号等級帯を使いますが、インレタ作業自体元々好物とは言え、透け止めも抜かり無い品質と扱い易さは流石です。

「特急」・「かもめ」のサボパーツはモア製・号車札は以前にお裾分けした私の自作で国鉄書体を使用しています。
「博多行」の行き先サボは、エコーさん推奨のアトリエリーフ製品、私は自作で済ませてしまいますが、小物ながら雰囲気出しに効果的に貢献する嬉しいパーツと改めて思います。

近年車体標記類を(パッド印刷やシルク印刷などで)印刷済みとした製品が増えましたが、標記済みのぶん自由度が狭まりますので個人的にこの傾向は嬉しくありません。
(直近のTOMIX青15号色の10系寝台車製品で、青色となった実車で5年も続いた窓下の「寝台」標記の史実を無視して、印刷済みの「B寝台」とした仕様の変更には、価格上昇も含めて余計なお世話と本当に落胆しました)

■MODEMO内装

ズラリと列を成す一方向きロマンスシートとスハフ43形の特徴でもある上等な車掌椅子も印象的な製作途上の楽しくなる光景です。

乗客用座席はロザ・ハザとも製品付属の座席パーツを使用、2席一組でブロック状に成型されたパーツなのですが、背もたれの角度が殆ど垂直だったため、自然な傾斜となるように個々のパーツの底面を削って角度を付けた上で、治具を拵えて床面に配置されています。

ハザ車に180個・ロザ車に48個の計228個のパーツ底面をバラツキ無く修正し、生地を整え塗装して、シートカバーを装備するという作業は、想像するだけで気が重くなる修行の領域ですが、座席パーツ底面に傾斜を取ることで結果的に座面にも肘掛けにも実感的な角度が付きますので、ピンチをチャンスに変えた後加工の好例と思います。

シートカバーですが、ハザ席はポスカの白で塗装、ロザ席にはエーワンのラベルシールを切出し貼付けて表現されています。この時代の特ロシートのシートカバーは、両サイドに付いていた細紐で括って背もたれに固定する方式の1枚もののエプロンタイプでしたので、その見た目にも合致します。

私自身いつも悩ましいのが座席の色で、手元にある資料ではハザ席は「緑7号」、ロザ席は純毛時代なので「ぶどう色5号」なのですが、以前にもコラムに記したかと思いますが、そもそも国鉄色見本帳が繊維色には基本的に対応していないため、今となってはこの緑色も茶色も実際にどんな色だったのか特定出来ません。

2年程前に「国鉄色ハンドブック」を刊行されたTMS編集部さんも、色決めの中心人物だった星さん・黒岩さんがご存命の間にこのあたりのことをしっかり取材しておくべきだったとコメントされていますが、星さんは一時期芦屋にもお住まいでしたし、もしかしたらコンタクトが取れていたかもと私も尚更に悔やまれます。
星さんとは太いパイプがあったはずの天賞堂現行のスハ44系列製品の座席パーツの色調に、どんな情報が果たしてどれほど反映されているのか、検証のしようが無いだけに真相を知りたくなります。

■室内灯配線


室内灯は亀屋さんのテープLED製品を使用、コスパが良く私もお馴染みの有り難い製品です。

面白いのは室内灯を天井に貼らずに仕切頭上に設置するこのタイプのレイアウトに於いて、集電加工した台車センターピンから室内側へ引込んだ導電ルートを、二重にした中妻の間に挟み込んで上方へ持ち上げて、中妻を脚代わりに櫓のように組んで頭上に設置したテープLED室内灯に通電するという、電装を極力隠す工夫が光ります。更に床下のビスの締緩で室内灯のオン・オフが出来るよう一手間加えられています。

■マシ49形


食堂車の内装には軽量化を目的に、モデルシーダーさんが企画・販売されているMaxモデルのスシ37740形製品向けの内装キットで構築されています。

所謂レーザーカットパーツの組立キットですが、中妻も料理室仕切も食堂椅子もテーブルも、全て適宜折曲げたり貼り合わせたりしてパーツ化する方式です。
一見簡単そうに見えますが、抜く・曲げる・貼り合わせる・下地塗装で補強するといった、しっかりとした成形に必須な個々の作業は、それなりに腕前にも左右されそうで、こうしたキットこそ経験を積む上での好適な素材と思えて参ります。

内装パーツを室内へ収める方法も色々と思案のしどころかと思いますが、室内灯の関係で食堂テーブル・椅子をアルミ床面に固定する方式として、当該箇所に干渉しないよう床板取付けアングルは極力短縮されています。
(マシ49形の室内灯配線は、私の常套手段でもある建具で隠れる部分の車体壁に設けたスプリング接点で通電する方式とされています)


食堂テーブルにはメニューや食器・(一輪挿しの)花瓶、更に乗客もセットしたくなったそうですが、ひと手間加えたテーブルクロスの表現だけでも窓越しの食堂車らしさがグッと引き立ちます。

Kさんからの「マシ49形の内装色は何色?」というご質問が、この「かもめ」モデルを知る発端でしたが、戦後まで運用が続いた昭和一桁生まれの3軸ボギー食堂車の資料は、カラー写真も含めて極めて乏しく私にとっても悩みの種なのですが、たまたま50年前に入手していた手元の資料に、冷房化で後にマシ49形となるスシ48形の内装色が「クリーム3号」であったとの記述を発見しましたのでお伝えしました。

後になってTMSの「国鉄色ハンドブック」の「クリーム3号」の項目にも同様の記述を見つけましたので、裏を返すとこの間新たな史実の発掘などの研究が進んでいないことを示していそうに思えます。当時の木製食堂椅子に用いられた織物やビニールレザーのクッション色も、赤・黄・茶・緑・青や水色と色々あったようですが、流石に特定には至りません。
モデルの食堂椅子にあしらわれた赤茶色もなかなかに似合っていて、工作の楽しさが伝わります。


料理室屋根上のベンチレータにはニワ製のロストパーツを奢られています。

床下機器は写真を参考に配置され、前後で隣り合うMODEMO製客車とのバランスを考慮した仕上げとされています。存在感を放つKM形冷房ユニットにはやはりそそられます。

軽量化とクオリティの担保に腐心されたKさんの「かもめ」作品解説は以上となりますが、苦行の想像は容易で、私もチマチマした工作に耐えられる体質ではあるのですが、好きな事とは言え正直頭が下がる思いが致します。

人生の転機を迎えられ、ご本人曰く「(時間は必要だが)低価格で作る」のか「(価格は兎も角)優れた完成品」にするのか、これまでは圧倒的に前者の、如何に工夫してオリジナル作品とするかを主題に楽しんだ模型趣味を、今後の人生で限られた時間をどう配分するのかを考えながら在庫キットに向き合っているそうです。

起業以降個人の工作は後回しとなり一向に減らない仕掛かり品を思い出す度に、直系が70代前半で他界したこともあって残り時間の少なさに焦ります。
一方でお商売を通じて愛好家の皆様と繋がったことは、大なり小なりそれぞれの創作活動に触れるところとなり、それは少なからず自身の癒しともなっていることを有り難く思う次第です。
(2023.02.06 wrote)

 
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