INDEX:

※第1話〜第10話へ戻る

※第11話〜第20話へ戻る
※第21話〜第30話へ戻る
※第31話〜第40話へ戻る
※第41話〜第50話へ戻る

第51話
【元日に】
第52話【追悼 旺】
第53話【N700A新幹線電車・副反応?】
第54話【大失態】
第55話【大失態その後】
第56話【マッハ閉店に思うこと】
第57話【業界のいろいろ】
第58話【列車(愛称)名のお話しから】
第59話【記憶の検証・整理整頓その前に…「鉄道の日」】
第60話【記憶の検証・整理整頓】

第61話〜へ進む

   

 

 

第51話【元日に】

新年明けましておめでとうございます。

今年は元日のみ仕事から離れることにして全く何もしない呑んだくれの1日を過しました。
実は起業以来、まるまる仕事から離れる日など身内の冠婚葬祭以外にありませんでしたので、たまにはと例年の新年のご挨拶メッセージ掲示のためのHP更新作業も取りやめて、文字通り一切仕事から離れてみたのですが、サラリーマン時代の休日なら勇んで組レールを敷設して運転会になだれ込むはずのところが(鉄道模型に親しんで来られた方なら容易に想像がつくかと思いますが)案外デリケートな代物の模型をこれだけ長い期間走らせていないともなると、そのぶん数々の運転トラブルに見舞われそうな気がして来て泣く泣く思いとどまった次第です。ここ数週間の年末から続く手作業に頼る部材の切削加工で被った手指の腹へのダメージも少しは癒えたところで2日より平常運行を再開し最早お正月気分も抜けつつあるところです。

ところで、丁度9年前のコラムの第17話で、久しくお目にかかれて居らず心底忘れられない思い出の駅弁のお話しを記しましたが、実はその数日後にたまたま閲覧していた「○○経済新聞」という全国各地で各々に地域に密着した情報を提供するWEBサイトの「阪神百貨店駅弁まつり開催」の記事(会社勤務時代にシステム関連でお世話になったお会社の社長さんの執筆)で、偶然「駅弁まつり」でも折尾のかしわめしが買えるという事実を知り、以来阪神百貨店の「駅弁まつり」は毎年出掛けるお楽しみの催事となりました。

「駅弁まつり」といえば以前は会社の帰りなどにちょっと寄るだけでしたので、その時点で売り切れていたら販売されていたことにさえ気が付かずに過して来たという訳です。
さあ仕切り直し!と初回のお祭り詣では、開店時刻前に阪神百貨店の前で待機することにして、寒々とした朝の梅地下の阪神前に案の定に既に出現していた会場入りの行列に、行列嫌い乍ら大人しく並んだお陰でお目当ての折尾駅東筑軒の「かしわめし」と感動の再会を果たし、帰宅して早速に食すと、付け合わせに至るまで昔と何も変わらない内容と、とびきりの旨さに感激しつつ味わい尽くし倒した次第です。

例の外付HDD破壊によって撮り溜めていた駅弁の画像も全て失い、下の画像は昨年購入時のものです(デジカメのストレイジにデータが残っていました)↓


当日の会場では更に、これも懐かしい(鉄ちゃんの間では「かしわうどん」で有名な)鳥栖駅中央軒の「焼売」を見つけたので即買いしたのですが、子供の時分にも何故なのか急に不味くなる時期が繰り返されていましたのでちょっと心配だったのですが、残念ながら美味しく無くなってしまっており、翌年会場からも姿を消してしまいました。

この9年を振り返っても、東京日帰り出張の帰路で散々お世話になり倒した崎陽軒とともに不動の人気なのが、ご周知の通り宮島口駅うえのの「あなごごめし」と言えますが、私自身はこれほど有名になるずっと以前の小学生時分に山陽路を旅した際、小郡(今の新山口ですね)駅から(不覚にも列車名を忘れてしまいましたが)非冷房の471系でユニット窓全開の瀬戸内の車窓を満喫して到着した宮島口駅で初めて出会い、その旨さに感動して以来めちゃめちゃファンなのですが、毎年の「駅弁まつり」会場では「あなごめし」目当てのなかなかに殺気立った集団が怖過ぎるのと、なかなかのお値段ですので薄給の自身には分不相応と購入を慎み続けて来ております。

「あなごめし」はブースでの数量限定実演販売、「かしわめし」の他、数種の人気駅弁は「輸送駅弁」と称していて、店頭には並ばず販売当日の朝伊丹に空輸されて、11時半頃会場に到着したら専用コーナーで手渡しで販売されるという仕組みで、いずれも先に整理券の入手が必須となり、整理券の配布方法や場所などは阪神百貨店の改装工事とも重なって少しずつ変化しましたが、2019年からでしたか、遂に「あなごめし」と「輸送駅弁」の整理券の配布は会場の外の地下広場のような所に変更され、先ずはそこに並んで整理券を受取るまで会場に入れないという新たな難儀が生じ随分とストレスが溜まりました。翌年今度はいつもの時間に並んでいたのにあと十数名のところで肝心の「かしわめし」が売り切れてしまうという、コロナ禍が忍び寄る中、恐る恐るに祭り詣でを敢行したのに収穫無しという大惨事に見舞われてしまいました。

どうやら知らぬ間に「かしわめし」人気も高まっているのかなと、今年は値上がりしましたが、それでも税込815円はまだお手軽に楽しめる範疇なのかなと思います。 昨年からコロナ対策で「駅弁まつり」も、ネットで事前に受取日を指定する予約販売が開始されていて(今年ももう始まっていますが)早目のアクセスを心掛けて居さえすれば、コロナワクチン接種のネット予約の時ような繋がらない取れないなどというストレスもありませんし、予約した指定日の指定時間帯に会場に行けばスムースに受取れますので実に快適です。

それはそれとしてなのですが、以前は「輸送駅弁」が到着する11時半が迫るとまだ仕上がっていない状態の受取コーナーの最寄りで整理券を手にした行列が出来始めるのが常で、行列嫌いの私もまた気がはやってしまい11時前には早くも先頭集団の列に加わっておりました。
そんなことを何年も繰り返すうち気が付けば、お互い「かしわめし」を買い求める顔なじみの同志のような関係性が生まれて「ことしも来ましたね。お元気そうで」といった会話を交わすお馴染みさんが増えると、「会場のどこそこの漬け物屋が旨い」だとかを教えてくれたり、ある年には空輸されて到着した駅弁の仕分けに戸惑う店員さんに向かって、段ボール箱に貼られたラベルを一見しただけで「これはどこそこのなになに」と指示?を出す実に変わったというかマニアックな若い兄ちゃんが現れたり、いつだったかは先頭の老紳士が店員さんに整理券の束を差し出し「かしわめし11個」と伝えた瞬間に「おおー」っと拍手が巻き起こったりしていましたので、人との距離が益々希薄となる今日に於ける案外と捨て難いこうした触れ合いも消えて若干寂しい気も致します。

余談ながら、コラム17話でもうひとつ話題にていた淡路屋の「松風」(通称しゃぶしゃぶ弁当)が、この9年の間に1度だけ三宮そごう(現、三宮阪急)の淡路屋店頭に出たことがあって逃さず買い求めたのですが、かつての輝きは見事に失われておりました。

淡路屋の他の商品にも共通しますが、そもそも弁当の器に調湿機能に優れた経木を使わなくなった点が最大の過ちと、先頃崎陽軒と姫路のまねきのコラボで誕生したまさかの西の「シウマイ弁当」も開発の際に崎陽軒の示した一番の条件は「容器には経木を使うこと」だったそうで、やはり流石です。

淡路屋の駅弁で辛うじてクオリティーを維持しているのは「ひっぱりだこ飯」くらいに思え、定番の「牛めし」の味でさえ落ちたと感じざるを得ず、食堂車も消えて久しく列車旅の食を支える駅弁大好物の鉄ちゃんとしても長年の淡路屋ファンとしても、アイデア豊かな若社長率いる伝統の淡路屋さんの是非ともの奮起に期待したいところです。
(2022.01.03wrote)

 
PageTopへ  
 

第52話【追悼 旺】

私事になりますが、弟夫妻の長男で私の甥っ子にあたる和田旺(ひかる)が先月3月31日永眠しました。(享年30歳)

乳幼児期より原因不明の足指の変形を発症し、度々の手術を乗り越えて病名が判明したのは小学校に入学してからのことでした。全身の筋繊維がゆっくりと骨化して徐々に運動機能・身体機能を奪ってしまうという、当時国内で10例・アメリカでも80例ほどの症例しか確認されていない、要因も・いつどこにどう発症するのかもわからない・効果的な治療法も未だに確立されない難病でした。

彼は私同様生まれながらの鉄ちゃんで、動かすことが出来た指先で器用にデジカメを操り鉄道を撮影していましたし、旅好きの鉄ちゃんでもある父親(私の弟)のお陰で鉄道旅にも度々出掛け、私も羨ましく思うような今時の列車にも沢山乗車し、勿論模型(Nゲージ)愛好家でもありました。

東京生まれの東京育ち・住まいは小田急沿線ながら彼は実は阪急電車の大ファンで、もう5〜6年前になるかと思いますが、遠路遥々阪急電車を堪能しに母親とふたり電動車椅子と補聴器で武装した旺が久々に会いに来てくれてひととき楽しく鉄談義に花を咲かせたのが結局最後でした。

師匠と慕われた私が彼について最大に強く思うことがひとつだけあって、それは両親から聞いた話しでも同様なのですが、生前彼の口から人を非難するような言葉を一言も聞かなかったことです。元々温和な性格なのですが、自身の境遇を嘆いたり人や社会を恨んだり妬んだりするような言動は一切ありませんでした。自身に置換えるととても真似の出来ない立ち振る舞いは、誰に似たのか唯唯恐ろしいほどの人間力の持ち主の裏付けであることを痛感させられます。

鉄道関連の仕事に就く事がやはり彼の夢だったようですが、治験を繰り返しながら支援の輪の元、小・中学校を無事に卒業し高校は不本意ながらの支援学校でしたが、そこで出会った障がい者スポーツのハンドサッカーにのめり込み、主将となり全国制覇したことで生き甲斐の1ピースとなったようで大学卒業後はハンドサッカー協会の理事として活躍しました。

4月4日の通夜・5日の告別式ともに生前交流のあった多くのみなさんがお別れに来てくれて、勿論本人の人徳であることは明白ですが流石SNS世代の旺の交友関係の幅広さにも圧倒されました。
出棺に際しての花入れセレモニーが始まると棺はみるみる全国各地の鉄道写真で埋め尽くされ、加えて現役のJRの運転士さんが持参されたお宝の「サンライズ瀬戸・出雲」のスタフも収まり、スポーツ関連のアイテムも含めて旺らしい設えになればなるほど、今思い出しても悔しさが募り涙が滲みます。
因にうちは奥さんチョイスの国鉄時代の6000形コンテナの精緻なイラストが配された付箋セットと男前の旺に相応しいノイマイスターデザインの伊達男500系新幹線を陶器で再現した淡路屋の山陽新幹線岡山開業50周年記念駅弁を祭壇に飾り、中身だけ棺に添えて食べてもらうことにしました。

斎場で旺の両親と再会し立ち話をしていて初耳だった事が2つあって、ひとつは本人は最後の最後まで完治を諦めていなかったことでした。私自身もIPS細胞の実用であったりサイエンスの進歩により必ず克服すると信じていただけに残念でなりません。

もう1点は旺が可成りヘビーな駅弁マニアだったことで、お母さんは旺のリクエストで京王百貨店(関東はデパートと称する場合があるので念のため調べると京王は京王百貨店が正式名称でした)で開催される駅弁大会に並んでお目当ての「うえののあなごめし」を毎年買い求めていたそうです。

駅弁大会は毎年1月中旬に「京王百貨店」での開催が終了すると、次の会場となる「阪神百貨店」へ移動してほぼ同じ内容で開催されますので、私はよく京王百貨店の情報を参考にするのですが、今年は京王で評判の良かったこの季節でしか販売されない富山駅「源」の「ぶりかまめし」を試してみるとこれが異常に旨くて、行列も無かったですしもう一度買いに行きたくなりましたが懐に余裕なく贅沢は禁物と泣く泣く諦めた次第です。
東京の和田家では大抵2度ほど出向いていたとかで旺は本当に駅弁が好物だったことが伺えます。

葬儀を終えて東京から戻るや夕食に久々の崎陽軒の「シウマイ弁当」を、駅弁マニアだった旺を改めて偲びながら味わい尽くしました。

合掌。

(2022.04.10 wrote)

 
PageTopへ  
 

第53話【N700A新幹線電車・副反応?】

勝手ながら気持ちの整理を付けるためにも前話は私事に終始しましたので続けて今回は鉄分多めのお話です。

この度の甥っ子葬送にて4日・5日と新幹線で東京往復致しましたが、実は訃報が届く前、ようやく6ヶ月経過をクリアしたタイミングだったため3回目のワクチン接種予約をしようと、当初週明け4日を心積もりしながら予約画面を開くと、今回は1・2回目予約時と全く異なり余裕の空き状況だったため、虫の知らせだったのか週中が良いかと6日を予約していたため支障なく接種を済ませましたが、因に私は3回ともモデルナで、お客様や周囲の方々から様々に耳にする副反応については、1回目は接種部が数日に渡り腫れて決まった箇所の頭痛が3週間程度続いた程度で済みましたが2回目はありとあらゆる症状に見舞われて2日寝込み死ぬかと思いました。そして覚悟して臨んだ今回の3回目は1回目同様接種部は腫れましたが頭痛も無く結果的に最も楽でした。

何故こんな話題になるかと言うと、実は学生時代の大のなかよしで宝塚でWEBデザイン事務所を営んでいた友が2月にオミクロンに感染し数日で重傷化し助かりませんでした。まだ61歳で私と違って元々飲酒しませんしタバコも遥か以前に止めていて元ラガーマンという健康的な肉体の持ち主だっただけに気の毒で寂しさとやはり感染の恐怖を感じました。

そんな事実を知るところの抗体も底をつくこのタイミングでの東京往復には特に気を使いましたが、意外なことに往復の新幹線はほぼ満席、都内移動のJR・小田急も特にJRは以前の賑わいを取り戻すお馴染みの混雑ぶりで、とどめは帰りの新幹線から乗り換え住吉まで乗車した窓開口が厄介な223系2000番台快速電車で「この電車は神戸まで先着します」という車内アナウンスで先頃実施されたダイヤ改正による減便の影響を思い知らされるスシ詰めの車内は恐怖でしかありませんでした。結局基本的な感染対策に心を配るしか無いと腹を括る移動でした。

さてここから本題ですが、久々に乗車した新幹線電車は往路・復路ともよくよく考えるとまだ乗ったことの無かったN700A(N700系1000番代)でした。
ネットから座席を指定して買える時代ですので、静かな付随車も捨て難いところでしたが付随車はシートピッチが僅かに詰まるTc車のみであることと、グリーン車並みの遮音床を普通車にも採用したN700Aの実力を知りたくてM2車を選択、いつものように、前後のボギーが各々振動の作用点となる鉄道車輌に於いて最も揺れが軽減される車体前後のほぼ真ん中あたりの席を取りました。
余談ですが子供の時分は、良く目にしていた自由席と指定席が混在した特ロ車の指定席には、枕カバー天面に「指定」の文字が入っていて、その指定席が車内前後のどちらかに寄せてスッキリと配置されていなくて何故か真ん中当りの4〜5列に塊として集中していることが不思議でなりませんでした。合理的な理由が存在していた訳ですね。

面積が縮小した側窓や根本的な改良が必要に思う座席の構造など気になるポイントは相変わらずなのですが、書き出すと切りが無いので先ず遮音床の印象については、フルノッチで加速する際には確かに主電動機の威勢の良いうなり音が耳に入るのですが音色自体は心地良く、ポイントや一部のジョイント通過音も全体に角が取れ遠くに聞こえるような制御が成されていて上質感もあって極めて好印象でした。
噂通りの高加速 ぶりは実感を伴いますが、車体傾斜システムの所為なのかセミアクテイブ制振装置に由来するものなのか、高速での曲線通過時の快適性向上に寄与する筈の両システムにどうも違和感しか無く、終始荒れたレール踏面なのかな?と錯覚してしまうほどの却って余計な振動が加算されていて、昔の車両とは違い振動の角そのものは丸く取れてはいるものの全般にワイルドで心地よいとはとても思えないどうした訳?の乗り味には落胆しました。

興味深いといえば興味深い車輌に変わりはありませんがいつか新幹線電車についても時間があれば総括してみたいと思います。

左腕の筋肉の腫れでカット作業に支障が生じたためコラムに充てましたが、痛みも完全に引きましたので作業を再開することに致します。
(2022.04.10 wrote)

 
PageTopへ  
 

第54話【大失態】

情けないことに自身知らぬままに7月初旬から弊社HPの閲覧が出来なくなるトラブルが生じておりました。

平素よりアクセスログの正確性を維持する目的で自らHPを覗きに行くことを敢えて控えているためトラブルに全く気が付かず、いつもコラムの更新を楽しみにご覧を頂いているあるお客様から「HPが閲覧出来ない」旨のご連絡を頂いてはじめて発覚した正に青天の霹靂でした。
唯でさえ思う様に進捗せず焦る新製品「スロ54」関連の作業を一旦中断し、急遽サーバーの状態を確認するもどこにも異常はみつからず、一方で「何かやらかしてしまったかも」と頭の片隅にうっすら思い当たるふしも浮上して参りましてお先真っ暗の地獄の修復作業の日々に突入してしまいました。

後にお伝えするトラブルの原因は、例えばITに精通された方の視点なら論外とあしらわれそうなほどの余りに稚拙なハンドリングの所為だったのですが、自身のPC歴はと申しますと、まだMacのCPUがモトローラの時代でOSが懐かしい「漢字Talk7」だった遥か昔からのまあまあのベテランではあるのですが、元々苦手な領域ながらに何より仕事で必要でしたのでそこそこに付き合いを深めた一方で、後に台頭するITテクノロジーについては何故だか付いて行けず未だに苦手意識が拭えません。

従ってこのHPを構築する際も、ハードルの高そうなHTML言語のお勉強は回避して、馴染み深いアドビ製のアプリケーションでサイトを作製することとして、自身のイメージするサイトに近い構成が例題に載っていたガイド本をお手本に、例題を置換えながらなんとかサイトデータを仕上げて契約したレンタルサーバーにアップした次第で、実は未だにあらゆるシーンで顔を出す専門用語それぞれの概念や働きを正確には理解出来ていない故、この度助けを求めた際のサーバー屋さんとのやり取りでも、内容の噛み砕きに都度時間を要してしまい大変難儀を致しました。

HP閲覧不能の原因はドメインの失効に よるものでした。何故失効したのかと言うとそれは自身の勘違いによって4月に更新停止を依頼していたためでした。契約の更新は毎年7月ですので同月初旬に期限を迎えて閲覧不能となってしまっていた訳です。

契約しているレンタルサーバー屋さんでは、先ず基となるドメインを取得、更にcomなどに装飾出来る「独自ドメイン」サービスを提供されていて、私も「独自ドメイン」サービスを利用しております。
「独自ドメイン」はメールアドレスにも適用可能なため当初はメールでも利用していたのですが、運用を始めるとその特性上メーラーによっては「なりすまし」と判断されてしまうトラブルも結構発生したため、メールアドレスの「独自ドメイン」運用については事実上停止して既に久しく、年額1,800円+αの「独自ドメイン」使用料について、契約して何年も経過するうちに、労害の所為かこの料金を「メールの独自ドメイン」のみへの対価と思い込んでしまっていて、これは勿体ないと更新停止の判断に至った次第で、契約時に記していた手元のメモを改めて読見返すと、そんなことはどこにも記しておらずHPアドレス(ドメイン)に付帯する使用料であることを当時ははっきりと認識していた事実を知ると、尚更に今回の失態はいよいよ情けなく凹んでしまいます。

失効したドメインを再登録する手続きには相当の時間が必要なうえ、その間他者に契約されてしまうというリスクもあって、仕方無く新規にドメインを取り直し運用再開に漕ぎ着けた次第です。

因にグーグルやヤフーといった検索エンジンで「御影モデル」や「御影モデルクリエイト」と入力して検索すると以前は必ず最上段に上がっていた弊社のページも今は六甲さんのサイトがトップとなり、検索にかからない状態に陥っております。
新規に設定したドメインにクローラ(ネットワーク内を飛び回りキーワードを抽出する検索ロボットの通称)が反応してくれるのを待つしかありません。

ドメインの変更で、これまでチェックして頂きましたブックマークもネットワーク上のあらゆるリンクも機能しなくなる混乱を招いてしまいますことに加えて、なにより突然閲覧不能に陥りましたことで大変なご迷惑をお掛け致しましたこと深くお詫び申し上げます。
(2022.07.28 wrote)

 
PageTopへ  
 

第55話【大失態その後】

URLを更新せざるを得なかったこの度の本HP復旧の結果として、これまで容易に辿り着けていた「御影モデル」「御影モデルクリエイト」などのキーワード検索機能を(一時的とはいえ)失ってしまい、閲覧に欠かせぬ大事な機能だけにこれはまずいと、キーワードに係るHTMLコードを更新するとともに、お客様など関係先への新アドレス移行お知らせのメールの一斉配信を致しましたが、やはり経年の影響か着信不能事案も多数発生してしまい毎日憂鬱でした。

一向に好転しない現状に他に何か方法は無いかと動きたくても、只今進行中のただでさえ難儀続きの開発業務を圧迫しかねず個人事業の泣き所と改めて思います。
元々不器用ですので、物事に集中は出来てもマルチタスクは苦手で、更に今回の開発では前例の無いパーツが多いため普段より慎重さを伴いますのでどう頑張っても時間を要してしまい、後々の予定への影響も懸念され毎日焦ります。

さて、昨日になってようやく「御影モデルクリエイト」でのグーグル検索で、上から6項目目に本サイトが表示されるようになりました。しかし「御影モデル」にはまだ反応してくれません。サイトを復旧させたのが先月の27日でしたから再び認識されるまで17日間も要したことになります。

起業時は当然ながらネットワーク上に「御影モデルクリエイト」というキーワードなど存在しておりませんでしたので、HPを立ち上げるとグーグル検索でも直ぐにトップに掲示されまして、そのままトップをキープし続けておりましたのに、一旦ネットワーク上から脱落すると、既にキーワードが定着した今の環境だと掲示にこれほど難儀をするものなのかと身に滲みた次第です。
(2022.08.14 wrote)

 
PageTopへ  
 

第56話【マッハ閉店に思うこと】

ここ数年来のことながら、寝起きの朦朧とした不快感が終日続く体調不良に陥ることがあって、さして悪いところも無く加齢のせいなのかなと思う度に、あと何年続けられるだろうかとか、山積するプライベイトの仕掛かり模型は果たしてちゃんと仕上がるのかとか、まだやるべき事は一杯なのにいよいよリアルに終末期を意識してしまいます。

長きに渡り親しまれたマッハさん閉店の告知は、関西圏の模型愛好家を漏れなくざわつかせたと思います。
東海道新幹線も開業していない私もまだ5歳だった1962年の創業ですから、今日模型業界で活躍されているプロのみなさんやアマチュアモデラーの多くがマッハで育ったと言っても良いくらいの文字通りの老舗だった訳ですが、私が最初に訪れたのは当時鉄道模型店不毛地帯の熊本に在住していた中学1年生だった夏休み恒例の神戸詣での折でした。マッハ閉店を知らせて頂いたお客様との会話の中で、すっかり忘れていた当時お店が堂島地下街にあったことも懐かしく思い出されました。

以後毎年の春・夏休み神戸詣で恒例の京阪神模型店巡りでも、当時手の届きやすさが魅力だったロコモデル取扱い店や同じく老舗の六甲模型さんとともに必ず訪れていた楽しいお店でした。お店が旭屋書店内にあった時代は、模型仲間の同級生とお店を出ると階段途中にあった喫茶店のカレーで腹ごしらえをして次の店へ向かうというのがお決まりのコースでした。

マッハさんとの関わりを振り返ると、ご兄弟で経営されていた頃が一番密だったように思えます。技法や知識などモデラーのためになるノウハウを知れたり相談にも気軽に応じてくれた優しいお店でした。
正直に申し上げて代替わりをされて以降特に近年は、 質問しても消極的回答となる傾向が強まり、昔美点だった魅力が減少してしまうと自然と足も遠のきました。
なんでもネットで手に入る時代となってはお客さんの側の意識も少なからず変化したようで、それがマッハさんの守りの姿勢の一因となっていたのかも知れないと、一方では気の毒に思ったりも致します。

京阪神で長い歴史を紡いで来た所謂街の模型店さんも今や京都は衰退し、大阪もメジャーどころで頭に浮かぶのは大谷模型店さんくらいなのかなと、自身にとっても最後の砦は六甲さんと腹を括るしかないのかなと思います。模型店さんの店頭での知識や情報の昔ながらの吸収作業は今時のネット社会でもなお優位性が確かに存在し貴重に思います。それにはお店・お客双方のベースに「模型愛」が無ければ成り立たないのも事実ではあるのですが…

マッハさんの最終日に店を訪れた方のお話しでは特に閉店セールも無く寂しいものだったそうです。
(2022.08.26 wrote)

 
PageTopへ  
 

第57話【業界のいろいろ】

16番製品を取り巻く近頃の鉄道模型業界のいろいろに実は思うところがあって、目覚ましいネット社会の成熟ぶりは従来に無かった多様性を流通ルートにも齎しており、ネットに頼る御影モデルなど本来モノ申す立場に在らずなのですがそこを敢えて申し上げますと、既存の流通ルートに介在する問屋さんやその先の小売店さんなど機能不全に陥らないかと心配になります。
他方、いつの時代も憧れのプロダクトたるブラスモデル製品には、増々嵩むコストに振り回され、どこでどうやってどれだけ量産してどう売るのかの悩ましさが見え隠れしますし、お手軽さが魅力のプラ製品にも海外生産につきまとう難儀さであったり、模型製作に於いて本来肝心なノウハウに乏しい新興メーカーの製品などを目に致しますと、この先鉄道模型はどこへ向かうのだろう?とこの点も不安になります。

個人的に(なかなか財力は伴いませんが)価格面も含め総合的に納得のメーカーといえば、ブラスモデルであれば、地道に歩むカツミさんやエンドウさんの製品は兎も角として、極めて魅力的なのはムサシノさんとU-TRAINSさんの製品くらいではなかろうかと、かつて模型界のロールスロイスと謳われた天賞堂ブラス製品の今時のとんでもない価格設定にはとてもついて行けず、寧ろダイキャストカンタムシリーズの方に魅力を感じます。

プラ製品では、残念ながらここでも天賞堂さんの海外生産製品には(憶測ながらも)現場との意思疎通に果たして問題は無かったのかと疑わしく思われる箇所が散見され嬉しくありません。
もう55年近くも前になるかと、天賞堂さんは当時の模型界でまだまだタブーとされていたプラ成型で2軸貨車シリーズを製品化されたことがあって、ご記憶のみなさんもいらっしゃるかと思いますが、エッジの効いたカッチリとした破綻の無い造形で塗装も美しく、適切なウエイト配分や車軸のケアなどの走行面も抜かり無く、デティールも当時の水準を十分にクリアした上でのお手頃な価格と、小学生の身分でも数輌揃えることが叶った魅力的な製品でした。今思うと今日の天賞堂プラ製品を買い求めた際の喜びと当時を比べると、背景の違いを差し引いても質そのものが異なるような気が致します。

あくまで長らく続けて来た鉄道模型趣味の視点ではあるのですが、模型もお商売なのでビジネスライクな割り切りであったり、時には冷酷な判断も必要になるとは言え、これまで目の当たりにして来た業界の栄枯盛衰には、そうは言っても結局は今でもビジネス上の決断は「模型愛」の度合いの強さに運命を左右されることになるのでは?と、そうした業界の特殊具体性を感じます。

Nゲージメーカーとして確固たる地位を築いた上に16番製品にも進出して久しいKATOさんTOMIXさんの二大メーカーでも、16番での製品化となると、市場規模・流通・販売など新製品開発のどの面に於いてもユーザーの想像以上に、やはりNとは違い過ぎる高いハードルが未だに存在するのだそうです。

お気楽な模型趣味人の頭の中では、であれば天賞さんのプラ製品は、高度な金型・成型技術・コスト抑制に長けるKATOさんに製造を託してしまえばお互いWinWinの関係が生まれ良いことずくめなのにと勝手な妄想が膨らみます。

今回気が付けば憂鬱な話しに終始致しましたので、いよいよの終活では無いですが次回のコラムからこれまで先送りが続いていた乗車記主体で進めて参りたいと思います。
(2022.08.26 wrote)

 
PageTopへ  
 

第58話【列車(愛称)名のお話しから】

今月はJR九州でいよいよ西九州新幹線が開業し、今や定番の水戸岡流に華飾されたN700S系8000番台による新幹線電車の「かもめ」が走り始めますが、以前にコラム第5話に記した通り、人生初めての特急列車もナハ11形に乗車した「かもめ」号でした。
1歳児の時分の体験でしたので、後に鑑賞の機会を得ることとなる8ミリムービーに残されていた記録と親の話しが全てと記憶には無いのですが、その後もキハ82系特急でもお世話になる「かもめ」という列車名には特別に親しみを覚えます。

昭和4年の「富士」「櫻」に始まり、翌年の超特急「燕」へと続く鉄道省・国鉄の列車名・列車愛称名を興味の対象として研究され造詣深い愛好家の方々もきっと大勢いらっしゃるだろうと思います。特別探求した事はありませんが私も何度と無く歴史を振り返ってやはり、まだ国鉄に活力のあった時代だったなと思う昭和30年代から昭和40年代の大阪万博輸送を乗り越えたあたりのところまでの列車名・列車愛称名には、その時代の列車達が以前にも申し上げた通り、なんとなくの特急らしさ・急行らしさに車輌自体が収斂されて行ったのと同様の「らしさ」が印象付けられていた時代だったように思えます。

列車名・列車愛称名を命名するにあたり、特に厳密な規定のようなものはどうやら存在していなかったようなのですが、戦後の特急「へいわ」に始まる列車名・列車愛称名の歴史に於いて、なによりワクワクしたのは不定期急行「流星」に始まって東海道新幹線開業前夜に全盛期を迎える、東海道本線を往来した夜行急行列車群のそれぞれに命名された「彗星」「銀河」「月光」「明星」「金星」「あかつき」「すばる」などの夜行列車を想起させるワードセンスが光る印象的なネーミングでした。

ヨン・ゴオ・トオで登場する20系寝台特急「あけぼの」あたりまでのこの間の列車名・列車愛称名には、多少の例外はあっても特急列車には「花鳥風月」、急行・準急列車には「沿線由来の名所旧跡・風物」といったテーマの棲み分けが定着して行ったような気が致します。

車輌そのものの出立ちとともに勝手ながらにそれを心地よいと感じていた自身にとって、その後の急行列車の衰退・らしく無い特急列車の乱発とその列車名にはどうにも我慢がなりませんでした。好きな車輌の模型製作はそうした鬱憤の裏返しなのかも知れません。

それにしても模型製作のための時代考証に益々力が入る一方で、まだ「鉄道ファン」誌が一冊300円しなかった時代から何十年も続けて来た鉄道誌の定期購読もここ数年来の金銭的な問題で儘ならず、鉄道の今日にいよいよもって疎くなるばかりです。
今回の西九州新幹線開業に於ける並行在来線は、上下分離方式で承継されますので路線名は存置されるかと思いますが、ここのところの並行在来線の第三セクター化で発足した新会社や営業路線は名称とともに複雑怪奇で付いて行けません。
そればかりかJR化以降次々と名付けられた路線愛称名にも「JR神戸線?JR宝塚線?なんでやねん!」と未だに抵抗を感じる始末です。

懐かしい時代、例えば単線非電化だった地方幹線が、実用化されたばかりの交流電源で電化されて、やがて複線化されるといった近代化のプロセスを目の当たりにして来た身にとって、近年目にするようになった架線下での柔軟な気動車の運用などには、それが効率的運用であることを百も承知しながらも、なんだか寂しい気持ちが勝ってしまいます。

次回は乗車記と参ります。
(2022.09.04 wrote)

 
PageTopへ  
 

第59話【記憶の検証・整理整頓その前に…「鉄道の日」】

大幅に発売が遅れております「スロ54」新製品開発はあと2山ほど越えれば量産体制に入れるところまでなんとか漕ぎ着けております。大変申し訳ございませんがさらにお待たせを致しますことお詫び申し上げます。

ここから乗車記の予定でしたがその前に、毎年迎える鉄道好きにとっての心の祝日「鉄道の日」についてのお話です。

平素より鉄道情報収集の一環としてお馴染みの書籍やネット情報などとともに(内容は兎も角)一昔前では考えられない程豊富な鉄道企画のTV番組もそれなりに活用しますので、毎日BDレコーダーのキーワード検索で気になる番組をチェック致しますが、今年は鉄道開業150周年のためか10月に差し掛かったあたりから、例えばキーワード「鉄道」での検索で通常30件前後の検索件数が100件以上に跳ね上がるという例年に無い現象に驚かされました。

内容としては特にNHKでは過去の鉄ネタ番組の再放送が目立ちますが、中にはローカル局制作の番組もあってそれなりに興味深く視聴致しますが、今更ながらに「鉄道」に注目する業界の認識の変化を感じます。

それだけ「鉄道趣味」が当たり前のジャンルとして社会性を確立したとも言える今日なのですが、まだ子供じみたイメージが勝っていて社会的認知に乏しかった時代を経験した生まれながらの鉄ちゃんと致しましては、その奥深さ・他では得難い豊かな味わいに反して、特に思春期に於いては公言を憚られる気恥ずかしさがつきまとうのが日常でした。
今や(中にはビジネス臭強めのケースも見受けられる)濃度の差こそあれ、昔では考えられなかった鉄道趣味を公言して鉄道番組で活躍される芸能人・タレントも多数と、年齢も違えば様々なバックグラウンドを有する鉄道好きのみなさんの話題には思わぬ共感や気付きにも誘われ、なかなかに興味深く感じます。

ご周知のとおり、本日は1872年(明治5年)10月14日新橋-横浜間に日本で初めての鉄道が開業して150年となる記念すべき「鉄道の日」なのですが、そういえばと50年前に遡る鉄道100周年の「鉄道記念日」と比べて、その盛り上がりの差に正直圧倒されております。

鉄道開業150周年を迎えての今日の数々の鉄道番組を視聴するうちに不思議に思う違和感を感じ始めまして、それはその50年前の開業100周年のことには殆ど触れられていないという点でした。考えてみればMC等番組の主役のみなさんの年齢が40〜50歳代が中心と、記憶に薄い時代の出来事になるのでなるほどと合点が参ります。
開業100周年を迎えた1972年(昭和47年)当時私は高校生でした。ご同輩・先輩のみなさんならしっかりと記憶されているものと確信を致しますが、100周年のメイン事業として当時の国鉄が事前に大々的にアナウンスしていたのは「梅小路機関区に国鉄蒸気機関車17型式を集め全機動態保存する」という夢のようなプランでした。
まだ地方では蒸機も定期運行されていた現役の時代でしたので、そこそこの現実感もあって国鉄もやるやん!とその意気込みを実感し、個人的には残念なことにしっかりとした記憶の無いC53形の3気筒サウンドにも立ち合えると舞い上がったことを記憶しておりますが、いよいよ蓋が開いていざ「梅小路蒸気機関車館」(現・京都鉄博の一部)として開業すると、殆どの型式が静態保存に留まり、3気筒サウンドどころかつい2年前まで呉線で頑張っていた私の大好物・C59形の164号機まで冷たくなってしまっていて落胆にも程がありませんでした。ネットなど勿論存在せず鉄道番組も希薄だった国鉄時代の鉄道100周年の思い出は残念ながら本件に尽きます。

この力及ばずの結果が透けて見える残念な思い出を今振り返ってみても、国鉄の凋落の始まりはやはり70年万博輸送を乗り越えてからの息切れにあったという思いが致します。
1972年といえば、これまでの慣例を破り1車輌片側2扉の出入口台を設けるなど汎用性を高めた特急型直流電車183系が房総路に登場し、ディスカバージャパンキャンペーンも空しく急行列車を淘汰して特急料金に縋り付く当時の国鉄の迷走ぶりを肌で感じて憂鬱な気持ちになったことを良く覚えております。

その後の1987年(昭和62年)3月31日を最後に、まるでゆく年来る年のような記念イベントとともに国鉄は分割民営化されJRに生まれ変わり気が付けばもう35年、分割民営化には未だに色々な角度で複雑な思いが致します。
本件についてはまた別の機会に温存すると致しまして、因にのお話しですが旅の躍動感であったり移動の楽しさというよりも、信頼感を特に重視したのでは?と見て取れるガチガチのJRロゴマークにも未だに馴染めません。

その他「鉄道の日」に思うことといえば、新橋-横浜間が開業して2年後の1874年(明治7年)5月11日には官営鉄道として二番目となる大阪-神戸間が開業します。途中駅は「尼崎」「西ノ宮」「三ノ宮」、正しい読みの一助となるよう西宮と三宮に「ノ」を付加して表記しているのがなんとも明治らしく、その後いつでしたか近年「西ノ宮」は「西宮」に改まりましたが「三ノ宮」は今もそのまま継続されているのが興味深いところです。
東北本線の「一ノ関」駅も同例に相当するかと思いますが、明治期の鉄道延伸では地方など蒸気機関車の火の粉による火災が危惧されたり、駅が開業すると都会から流行病が流入するといった反対運動も発生していたとのことで、たまに地方で見られる街の中心から外れた場所の駅に立寄るとそうした先人の苦労が偲ばれます。

開業時の新橋-横浜間は(関東大震災を経て)今でいうところの廃止された旧汐留貨物駅-桜木町間に相当するので、2番目に開業した大阪-神戸間はその分リアリティーを感じますが、例年2年後に迎える「関西鉄道の日」についてもいつものように静かに祝うことに致します。
(2022.10.14 wrote)

 
PageTopへ  
 

第60話【記憶の検証・整理整頓】

ここから少しずつですが、乗車記と参ります。

出来るだけ新鮮?なネタをと、過去のコラムを読み返しておりましたら、どれも鮮明だったはずの記憶の中にも、鉄ちゃん人生も65年を越えるとやはり辻褄が合わない思い違いが生じていたようで、先ずは訂正のお話しから。

コラム第15話【幼い頃の乗車体験】で、マロネ29形に乗車したのは当時の急行「玄海」と記しておりましたが、いつの間にか記憶が上書きされてしまっていたようで、改めて検証し直してみると、乗車したのはどうやら急行「雲仙」だったと思われます。

そもそも当時4歳と記していた年齢も、よくよく思い返すと弟が生まれる前だったことに気がついて、よって3歳での出来事だったことになります。3歳児の体験ながら、下段寝台から見上げる上段寝台の大きく湾曲した船底形状の底面を覆うニス塗りのツヤツヤの木目地が醸す独特の異空間、翌朝迎える寝台車のハイライトとも申せる寝台解体ショーでの上段寝台がジャラジャラと音を立てチェーン巻上げ方式で天井幕板方向へ折り畳まれる心躍る光景、解体後に出現する(当時馴染み深かった西鉄北九州線の路面電車のように側窓下にロングシートが並ぶ)開放的な車内など、記憶は今も鮮明に甦ります。

弟誕生前であれば昭和35年5月以前の出来事となるので、コラム第15話で記した昭和36年10月というのは誤りであり、非冷房車の車内が快適だった記憶から夏期では無かったことになりますので、乗車したのは昭和35年の春あたりになるのかなと、両親も他界し検証のしようの無い結論に至ります。

母親の里帰りに同行し当時在住の北九州市黒崎から神戸(或は三ノ宮)まで乗車したこれが今日まで続く鉄ちゃん人生初の寝台車体験だった訳ですが、他に覚えていることと言えば「第15話」で記した通り、翌朝大幅に遅延し立ち往生する車内で親切なご婦人にキャラメルを頂いて空腹に耐えたこと、(「第15話」では記さなかった)お気に入りの犬のぬいぐるみを車内に置き忘れ降車してしまったことくらいで、TR-73形を履くマロネ29形の乗り心地・折角の3軸ボギー台車が奏でる肝心のジョイント音など残念な事に全く思い出せず、生まれながらの鉄ちゃんの感性も流石に育成途上であった事が惜しまれます。
情報の記録がスマホひとつで簡単に叶う現代の若い鉄ちゃんたちも、年齢を重ねた先できっと迎える思い出を振り返る場面での、我々世代では困難な容易さ・楽しさが想像出来るだけに、なかなかに羨ましく思う次第です。

遡って昭和35年前半の北九州を経由し山陽路へ向かうCロネのマロネ29形が組成されていた急行列車を改めて振り返ると「筑紫」「阿蘇」「雲仙」「西海」「高千穂」と、何れも食堂車を組成して九州各地と東京を結んだこの時代らしい長距離急行列車たちです。
どうにも思い込みの中にあった博多と京都を結んでいた「玄海」にはこの時期より後にマロネ29形が組成されますので誤りであることは間違い無く、さてどの列車だったのか、山陽路は昼行運用の「筑紫」と、乗車列車名はどう考えても4文字だった筈と「阿蘇」を外し、出産を控えた母親の幼児を連れた旅であればと、無理の無い出発・到着時刻に注目し三ノ宮着を調べると、「西海」5時54分・「霧島」7時25分・「高千穂」7時58分・「雲仙」8時44分と「雲仙」が好条件で、黒崎から出掛ける出発側でも「雲仙」なら隣り駅の「折尾」にも停車しますし、「小倉」で乗車する場合の普通列車の接続も一番スムースで現実味があり結果的に「雲仙」に落ち着いた次第です。

当時の「雲仙」の食堂車はマシ49形でしたが、山陽路での立ち往生で空腹に陥った際何故食堂車に行けなかったのか?そもそも行かなかったのか?の謎も、長崎を17時45分に出発する「雲仙」であれば山陽路に乗り入れる前に食材は尽きる訳で、立ち往生で翌朝分の補給が出来ずに営業を休止していた可能性があったことを考えると腑に落ちます。

急行「雲仙」は九州島内ではC51形(或はC57形)及びC59形に牽かれ、14分停車する「博多」でABロネのマロネ40形を増結し、関門トンネルはEF10形、山陽路で再びC59形へ、セノハチではD52形の後補機を従え「八本松」駅構内で後補機を走行解放、「姫路」に至ると牽引機はEF58形へ引き継がれ、山陽・東海道本線をひた走り18時23分に終着東京へ到着します。オールドファンと致しましては、この時代を象徴する丸1日を超えて長崎-東京を結んだダイヤや多彩な牽引機には心躍るばかりです。

プライベイトで模型を構築する際、私は必ず設定した列車の詳細な史実を洗い出し、ファイルにまとめあげてから取りかかります。これがなかなか楽しくて鉄道模型の目立たぬ醍醐味でもあるのですが、数年前にデータを保存していた外付けHDDがクラッシュし、それまでのファイルデータを全て失うという全く情けない悲劇に見舞われており、手元に残るプリントアウトを頼りにデータの再構築を早くやりたいのですが、今のところその余力はどこを探しても見当りません。

この時の里帰りの旅では、竜野在住の伯母に会うために神戸から「相生」までサロ85形に乗車したことも強烈な思い出として残ります。優等列車の機関車交換は「姫路」でしたが、山陽本線の電化は昭和34年の9月にはその先の「上郡」まで西進しており、80系電車の運用も延進されていた訳ですが、覚えていることのひとつは車体色で、モハ52形を祖とする関西急電色では無くて湘南色でしたので、関東圏のお古の200番代あたりだったのかなと思いますが、向かい合わせの固定式クロスシートがゆったりと並ぶ車内で印象的だったのが、くるりと弧を描く銀色のパイプを用いた袖仕切の形状でした。なんでそんな所に興味を抱いたのだろうと、3歳児の鉄ちゃんの視点の不思議さを今にして思います。
サロ85形には、後に高校生の夏休みに友人と2人で敢行した山陽本線全線鈍行制覇の旅で、格下げ後のクハ85形(300番代)で再会を果たします。早朝の「下関駅」でガラガラの車内に乗り込み、サロ85形時代のままの固定式クロスシートに腰を下ろした瞬間、そのあまりのフカフカぶりに驚愕したのをよく覚えています。
戦後GHQ(CTS)の命令で誕生しその後ロザ車の主役となるリクライニングシート(自在腰掛け・特ロシート)とはアプローチが根本的異なる、車体の振動を座席でも緩和させるという旧来のコンセプトに妙に納得した次第です。
(2022.12.11 wrote)

 
PageTopへ    
※第61話〜へ